Kanzan Gallery 特別展示
幻の響写真館 井手傳次郎
キュレーター:菊田樹子
協力:井手泉、竹見良二、根本千絵、山崎加代子
2016年12月7日 (水)-12月27日 (火)
OPENING : 12月10日 (土)
TALK : 17:00-
平間至(写真家)×根本千絵(「長崎・幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄妹物語」/筆者)×山崎加代子(デザインヘヘ/長崎) ×菊田樹子(当展キュレーター)
TALK定員25名/要予約 TEL=03-6240-9807 info@kanzan-g.jp
※ご好評につき定員となりました。
RECEPTION : 18:30-
GALLERY TALK : 12月24日(土)16:00-
菊田樹子(当展キュレーター)
昭和2年〜18年まで、現在の長崎市片淵にあった伝説の響写真館。バラのアーチをくぐり、ツタが絡まるモダンな洋館での記念撮影は、当時の女学生たちの憧れでした。当展では、その創業者である井出傳次郎の写真美学に迫ります。傳次郎の孫である根本千絵さんのリサーチから発見された、ガラス乾板からのプリントや貴重な写真画集を通して、傳次郎の創作の足跡を辿ります。
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キュレーター・インタビュー 01:「幻の響写真館 井手傳次郎」展
インディペンデント・キュレーター菊田樹子氏
昭和2年〜18年まで、現在の長崎市片淵にあった伝説の響写真館。バラのアーチをくぐり、ツタが絡まるモダンな洋館で記念撮影をすることは、当時の女学生たちの憧れでした。当展では、その創業者である井手傳次郎の写真美学に迫ります。傳次郎の孫である根本千絵さんのリサーチから発見されたガラス乾板からのプリントや貴重な写真画集を通して、大正ロマンやピクトリアリズムに刺激を受けながら、さまざまな写真のあり方に挑戦した傳次郎の創作の足跡を辿ります。
「2010年、長崎で偶然手にした卒業アルバムの写真と編集の素晴らしさに興奮し、思わず奥付を見ると『響写真館』とあった。現地の知人に聞いてみると、『当時の長崎で有名な写真館でとても人気があったが、短い期間しか営業していなかったようだ』という情報しか得ることができなかった。それからというもの「ひびき」という名と数枚の写真がふとした瞬間に頭をよぎる。もう一度あのアルバムを見に長崎に行きたいと機会を探ったが、叶わないまま時が過ぎていった。そして今年の夏、ある偶然から「長崎・幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄弟物語」が刊行されることを知った。井手家の家族の物語の余韻に浸りながら、私の中に静かに湧き上がってきたのは、傳次郎氏の写真をもっと見たい、もっと知りたいという衝動だった。」
(キュレーター・菊田樹子)
「幻の響写真館 井手傳次郎」2016年12月7日〜27日
当展は、井手傳次郎(いで でんじろう/1891年〜1962年)の写真展である。井手傳次郎は、1928年(昭和2年)から1943年(昭和18年)までの間、長崎市片淵町で「響写真館」を営んでいた。モダンな写場での記念撮影は、当時の女学生の憧れだったという。2冊の写真画集と294枚の写真が東京都写真美術館に収蔵されているが、現代ではその名を知る人は多くない。
<1>傳次郎の時代
日本の写真の開祖である上野彦馬ⅰが長崎に上野撮影局ⅱ を開いたのは、響写真館開業の66年前の1862年ⅲであった。彦馬は、化学(舎密学)として写真を学び、日本で2番目ⅳの商業写真館を開いた。当初の客は武士、藩主、軍人、県令、外国人などの特権階級であり、カメラは市井の人々や家族をとらえるためのツールではなかった。彦馬のカメラに向かった人々の中には、不思議な四角い箱の前に立つ戸惑いを露わにしている者も少なくない。
それから約40年後、1900年初頭から写真の芸術性に関する論争が始まり、「芸術写真家」による浪華写真倶楽部や東京写真研究会などが設立され、「東京府美術工芸品展覧会」に写真が美術部門に出品されるなどの動きが出てくる。東京美術学校(東京藝術大学の前身)に臨時写真科が開設したのが1915年、福原信三ⅴが「写真芸術社」を興したのが1921年、アサヒカメラの創刊は1926年である。傳次郎は、画家を目指して上京してから1923年の関東大震災後まで東京で暮らしており、こうした時代の流れを感知していなかったとは思えない。野島康三(1889年〜1964年)、淵上白陽(1889年〜1960年)、中山岩太(1895年〜1949年)などが活躍を始めたのもその頃で、傳次郎は彼らと同世代である。
<2>光、影、空間と被写体
傳次郎の写真を目にした時にまず浮かび上がってきたのは、ヨゼフ・スデック(Josef Sudek 1896年〜1976年)だった。スデックは、「プラハの詩人」と呼ばれた光と影の扱いに秀でたチェコ写真の巨匠である。観る者がその場面に溶け込むような感覚をおぼえるのは、叙情を表すためというより、被写体が持つ美しさが光と共にもっとも現れ出る「空間」をとらえようとした結果ではなかったか。傳次郎もまた、被写体と取り巻く「空間」との関係に意識的だったからこそ既存のスクリーンではなく、すりガラスの後ろから植物を光で照らし出すなど、美を引き出す個性的な背景を追求したに違いない。そして次に思い出したのもまたチェコの写真家で、フランティセック・ドルティコル(František Drtikol 1883年〜1961年)である。人工的に作りだす光と影、フォルムと人物との組み合わせは、傳次郎の写場でのポートレートと繋がるものを感じる。そして、資生堂創業者の三男であり、株式会社資生堂の初代社長としても知られる福原信三(1883年〜1948年)である。日本のピクトリアリズム写真の先駆者であり、修正や顔料を使った技法ではなく、光の強弱で生じる濃淡の調子こそ写真の本質であると主張した。傳次郎による風景写真は、まさにこうした試みではないかと思われる。
雑感に近い形で同時期に活躍した写真家との類似点を挙げたが、前提として、傳次郎の写真のどこまでを「作品」とすべきなのかという困難な判断が伴う。発見されているのはガラス乾板のみで、付随するメモなどもほとんど見つかっていない。傳次郎が写真雑誌への投稿や展覧会での作品発表に積極的だったという事実は現時点で確認されておらず、どこまでを作品と考えていたのか、また作品という認識があったのかすらも確定できる情報はない。
しかし、傳次郎の写真が芸術であると定義することが、今回の企画意図ではない。むしろ、写真とは、芸術とは、何なのかをとらえ直す試みとして考えたい。日本に写真がたどり着いてから約50年後に生を受けた井手傳次郎は、カメラで、写真で、何ができるのか、旺盛な好奇心で挑んだ。文字やデザインとの組み合わせによる視覚言語としての写真、坂の多さ、海や川に特徴づけられる独特の景観と異国情緒を湛えた長崎の街、新しい時代の幕開けを象徴する女性、そして愛する妻と八人の子供たち——それらが今、写真の可能性を示唆する鍵に、激動の時代の貴重な記録に、原子爆弾によって失われた記憶になった。これは、どういうことなのだろうか?それを、傳次郎の写真の前で考えたかった。まずは、幻の写真館の扉を開けることから始めようと思う。
*この展覧会は、井手泉さん、根本千絵さん、川内太郎さん、坂中雄紀さん、東明山興福寺のご住職からお借りしたガラス乾板や写真で構成しました。この場を借りて御礼申し上げます。
*響写真館、または井手傳次郎の写真や情報をお持ちの方は、ぜひご一報ください。
info@kanzan-g.jp
ⅰ 傳次郎は、彦馬の弟子にあたる渡瀬守太郎に写真を学んでいる
ⅱ 奇しくも、または敢えてだったのかもしれない、響写真館は「上野撮影局」を構えていた場所にほど近い。
ⅲ 写真術の日本への渡来は1843年で、彦馬の父が輸入した。
ⅳ 最初の商業写真館は鵜飼玉川によるもので、その前年1961年に開業。
ⅴ 井手傳次郎様と福原信三氏直筆の写真集も発見されている。(『長崎 幻の響写真館 井手傳次郎と八人兄妹物語』p181より)
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