Kanzan Curatorial Exchange 「尺度の詩学」vol.1

未来をうつす装置としての写真。

アーティスト、アーキビスト両面から拓く

写真の可能性とは?

- 土屋紳一「TIME LINE」インタビュー<後篇>

 

Kanzan galleryで展覧会を行った写真や映像メディアによる表現を模索するアーティストたちとの対話からその表現の言語化やその手法の実践のヒントを探るインタビューシリーズ

今回は、メディウムとしての写真の可能性テーマに活動するアーティスト・アーキビストの土屋紳一さんに、Kanzan Curatorial Exchange 「尺度の詩学」vol.1の展覧会「TIMELINE」についてお話を訊きました。

「TIMELINE」展は、「平成」「地下鉄サリン事件」をテーマに、リサーチ手法として年表をつくり、それに呼応するように制作した新作で構成されました。土屋さんが考えるアーティストの役割とは?写真を読み解くこと、アーティストとアーキビストの2つの視点の関係性とは?「尺度の詩学」シリーズ企画者でもある和田信太郎さんと共に探ります。

 

<インタビューの写真 |07_181226_土屋展インタビュー_3515.jpg>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■マイノリティの立場から考え続けることが

アーティストの役割

 

土屋:展示と関係ない話になりますが、小学校の頃から、僕は思考を一つに偏らせないところがありました。

例えば、何か多数決をするときに、最初に僕が手を挙げたものには賛同者があまりおらず他の方が圧倒的に賛同者が多かった。そして議論しようとなって、少数派の代表として僕が説明したところ、クラスのみんなが納得しちゃって、少数派だったものが多数派になったということがありました。実は、僕はどっちでもよかったので、もう一度多数決をするときに、最初とは別のものを選んだりして、みんなからは何してんだ!と言われちゃって。たぶん、そのときですね。アーティストになろうって思ったのは。

 

この話は、あまりしたことがないんですが、そのときに、人は他者の意見によって変わるということや多数決の怖さを感じたんです。その感覚がずっとあって。

だから僕にとって一番重要なのは、何が正しいかを問うよりも、少数派の立場、異なる立場から考えることを問うこと、その方法を提示することを続けることなんです。マイノリティとしてやっていくということ、アートってそういうことだと考えています。

 

ーーー   先ほどの価値観がひとつしかないことへの危険性のお話と通じるものがありますね。土屋さんは、立ち止まって考えること、無意識の暴力性みたいな事に対していかに自覚的になれるかを考えているんですね。

 

土屋:そうそう。思い出したんですが、例えで、「流れている川に、竿を一本さすということをしなければいけないんだ」みたいなことを言ったことがあります。要するに、いろいろな情報が流れてくるときに、何か自分で基準点をつくらないと、その流れの速さも、何が流れているのかもわからなくなってしまうという意味です。

 

時間や情報の流れに身を任せてみんなが流れて行ったら、きっと気づかないものごとが、たくさん澱のように溜まっていくんじゃないか。誰かが立ち止まって、いま目の前で起こっているものごとを考え、他の人がそれに気づくきっかけをつくらなきゃいけない。それがアーティストの役割でもあると思っています。

 

■未来をうつす写真を読み解く力

 

土屋:それから、一時期、「カメラは未来を撮る装置だ」みたいなことも言っていました。写真には、撮影者自身が気づいていない興味関心が実は写り込んでいて、今はそれを見つけられないだけで、数年後に気づくということがあるんです。

 

写真の読み解き方の訓練をすることで、これからの進むべき方向性が見えるかもしれないと、写真はそういう道具としても使えるのではないかと考えています。

「写真はただ思い出を撮るためのものではなくて、未来が写っているものとして接してください」という言い方もしていて、そういう意味では、もう随分前から未来の時間軸を意識していたなと思いました。

 

ーーー   面白いですね。そこにも考えることのトレーニングが常にあるんですね。

 

土屋そうですね見ることと考えることのトレーニングをやらないとダメなんだと思います。

 

ーーー   そう考えるようになったことは、ドイツで制作していた影響が大きいですか?それとも、土屋さん自身で気づき、鍛錬を重ねて来られたのでしょうか?

 

土屋:やっぱり写真の読み方、スキルってあるんですよね。一応、僕もそれをも叩き込まれました。僕自身は、大学時代に、高梨豊さんの写真の授業を受けていて、高梨さんからの影響があると思います。彼は写真を言語化する人だったから。そのときに、写真に対して陳腐化しない向き合い方ができるようになった気がします。

 

70年、80年代頃の日本の現代写真の写真家たちって、写真を読み解くことに、あらゆる角度から挑戦していたように思います。そうして切磋琢磨しているうちに、無意識に未来を見抜く力が備わったんじゃないかと。でも今は怪しい。最近では、instagramをはじめいろいろあるじゃないですか。それは、未来を読み解くようなもの、写真の先にあるようなものが全く削がれた写真で、既存のそのままの見た目の形式だけを引き抜いた、似たような写真の大量生産のようで。

 

ーーー   消耗品だということですね。

 

土屋:写真の消耗品の部分だけが社会に受容されてしまった。未来を見ている、未来がうつっているという部分は、丁寧に鍛えれば発展する可能性があったと思うんです。だけど、現在の写真環境は、カメラがデジタルになった過程で断裂してしまった気がします。

 

だからこそ、僕は言葉にして「写真は未来が撮れる装置だ」と言わなければと思っているのかもしれません。そうしないと、写真はただ記録して人に見せるというごくシンプルな装置としての認識しかされなくなり、見た目だけの表現になってしまうと思うんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■写真か否かのギリギリのところを常に考えて、

写真の可能性を拡げたい

 

ーーー   土屋さんは作品を通して、鑑賞者自身に気づいてもらう、その良い入り口をいろいろと試行錯誤されているのだなと今回の展示からも感じました。

 

土屋:僕のひとつの解釈を提示するよりも、考えてほしいんです。例えば、Port Bの高山明さんも何か明確な解を出そうとはせず、観客に委ねていく感じがとてもいいなと思っています。でも、どこまで委ね、どこからコントロールするかというその塩梅は難しいですね。高山さんは、そのバランスが上手い。

 

和田:高山さんは演出家という立場だからこそ、自分の意見や考えがある種の命令(指示)になってしまうという危険性にとても敏感です。どういう振る舞いをするか、そういったことに注意を払われているのが、演出家という職業なんだなと思います。

 

土屋:僕の場合は、そこまでセンシティブではないのかもしれない。

僕にとって、作品と演出の距離感がすごく合ったメディアだと感じるからか、写真が大好きなんですよ。

僕の師匠であるトーマス・ルフは、自分のフォロワーになるなとよく言っていました。彼との大きな違いは、僕はフィールドワークして撮影したいということ。でも彼は、素材をネットから用いてきたり、フィールドワークの概念も問題定義することで成立させています。そこが決定的に違います。

 

僕が唯一トーマス・ルフから真似をしたいすごいと思っているのは「これは写真なのか?という議論を引き起こしたことです彼は写真の領域を拡張してきた人なんですよね

だから、写真か否かのギリギリのところを常に考えています。今回の展示では、未来と過去を考えさせるような年表という形式を用いたこと、そのプロセスは議論が起きても良いなというところまでやり切れたとは思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■アーティストとアーキビスト、呼応するふたつの

視点と表現の作法

 

和田:展示の一ヶ月前くらいに、geidaiRAM2に土屋さんを講師としてお招きして、アーティストの仕事とアーキビストの仕事、またその重なりの部分をお話してもらう機会がありましたね。

 

土屋:geidaiRAM2の講義は、「TIMELINE」展をする前の自分の頭の整理になりました。そのときに、アーカイブのためのシステムをつくるという行為が、実は作品をつくる行為とすごく似ていること、どうシンクロしているのかについて話しました。

 

ーーー   土屋さんのなかで、アーティストとアーキビストの領域が呼応しているんですね。

 

土屋:今、あらゆる年表をまとめるデータベースをつくりたいと考えています。何か元号のようなひとつのターム、はじまりと終わりがある帯状のものをデータベースとして束ねて、そこから歴史や同時代を様々な角度から見れるような仕組みができないかと。

 

さらに夢を言うと、それ自体がwikipediaのような役割になるといいな。社会的にも利用されるシステムや構造と向き合うことで、作品をつくるときにその影響を受けるんじゃないかと感じていて、近年のSNSが普及した環境も含めて、それこそ立ち止まって考えることができるような場をつくらなきゃいけないと、本気で考えています。

 

和田:あまり語られていないことですが、デュシャンがレディメイドを発表する少し前に、彼は絵描きをやめると宣言し、図書館司書として働いていました。その時期に、自分の作品を箱に入れるといったアーカイブ的な表現の作品を制作していて、僕はその表現が生まれた背景には、図書館司書としての経験が大きく影響していると考えています。

 

デュシャンが図書館司書としてアーカイブの仕事をしていたこととアーティストとしてレディメイドを試行していたという、この関係は、土屋さんのアーティストとアーキビストの関係を語られたことで想起できたことです。だから僕は、土屋さんはデュシャンになれるんじゃないかって思っていて。

 

土屋:バカにしてるでしょ!(笑)でも確かに、その考え方はわかります。

geidaiRAM2のプレゼン資料をつくっていたとき、もはや自分はアーティストではないんじゃないかって思ったんですよ。それは悪い意味ではなくて。一般的に捉えられているアーティストという枠組みに、自分の興味や活動範囲が収まらなくなってきているなと感じてもいて。

 

和田:アーカイブの思考自体で作品をつくるというのは、意外と整理されていないし、考えられていないので、アーカイブとアートの結びつきのところは、ぜひ土屋さんに開拓してもらいたいです。

 

 

 

 

 

 

 

         <geidaiRAM2の講義風景の写真を入れますか? >

 

 

 

 

 

 

 

 

■ものごとを捉える前提を問い直すことからはじめる

実験「尺度の詩学」

 

土屋和田さんとしては今回の展覧会シリーズ「尺度の詩学に取り組んでみていかがですか?

 

和田:今回の企画では、「尺度」という言葉を用いて、ものごとを考える前提とどう向き合うかを考えていました。これが上手くいったかどうかは、たぶんもう少し長く考えてみないと分からないですね。

社会で何か表現を行おうとしたとき、言葉や考え方ではなく、それ以前のもっと前提となっているスケールの部分から、他者との関係の築き方を考えらえると面白いんじゃないか、そこを探る実験的なアプローチとして考えています。

 

その意味では、今回、年表という手法が出てきた。そのような手法がいくつか立ち上がってくると、いまの表現に関わるリサーチやフィールドワークの厚みが生まれるんじゃないかと期待しているんです。これまでもエスノグラフィーや社会学の質的調査をいった手法を積極的にアート側は導入しようとしていますが、50年代、60年代頃に民俗学をアートで応用しようとしていたこととそれほど変化していなくて。

 

重要なのは、アーティストが自己言及的になる枠組みをどのようにつくれるのかということ。それは、アーティストがどういった尺度で世界を見ているのかということにもつながっていきます。

 

土屋:それを人が見る形式にするときには、どうすればいいんでしょうか?

 

和田:その形式や表現としてどうしていきたいかは、アーティスト次第ですよね。だから、リサーチ手法として社会学や人文科学とは違う方法を、アート側は自覚すべきだと思うんです。もちろん社会学的なリサーチ手法からは、振る舞いの作法といった技術は学べます。でもそれ以前に、アートにとってのリサーチとは何か、というところが大事というか。

 

土屋:そういう意味では、僕の年表は意図的に自分志向でつくった、かなり私的なものですね。社会学的な年表としての機能は全くしていないし。

 

和田:そうそう。それがけっこう重要だと思います。

どんな年表を見ても、自分が生まれた年を見てしまいますよね。それはつまり、自分の尺度を入れてその年表を見るということ。そこも重要だと思うんですよ。

 

土屋:確かに。それこそ基準の話じゃないですが、展示会場で自分の生まれた年に何が起こっていたのかを考えたり、感じるだけでも重要なことだなと思います。

 

だから、さっき話した年表のデータベースのシステムをつくるときは、ユーザー登録をする際に、あなたは何年生まれですか?って聞くところからはじめないといけないと思っています。そうすることで、私的な歴史観みたいな体験ができるんじゃないか。そういうことを一度やってみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

<インタビューの写真|和田さんも写っている写真があると良いのですが、ありますか?>

 

 

 

 

 

 

 

 

■イメージをつくることの重要性

 

和田:表現の話に戻りますが、以前、写真や絵画といったイメージの表現を空間に展示することについて、日本の若いアーティストは表現はオーソドックスだけど、それらを見せる空間のつくり方が上手く、作品の見え方が変わる、という話を土屋さんにしたときに、「イメージをつくることが大事なんだ」と土屋さんは仰られていましたよね。

イメージをつくること、空間をつくること、そのバランスについて、今後はどうしていきたいと考えていますか?

 

土屋:それは、場所によるよね。限られた空間のなかで、伝えたいことはある程度減らして、想像を膨らませてもらうところに重点を置くのか、情報としてちゃんと提示しようとするか。どちらを選択するか難しいですが、僕は、イメージの部分を見てくれる人を重視しているんだと思います。あと、空間づくりを優先してしまうと、自分のやりたいことが伝わらないんじゃないかという不安があるのかもしれません。

 

未来を予測していく新たなもうひとつの軸をつくりたい

 

ーーー   最後に、アーティスト、アーキビストとして、平成や地下鉄サリン事件というテーマについて、今後も何か違うかたちで取り組んでいこうと思っていますか?

 

土屋:2018年9月のあの時期に、展示がやれたという達成感があり、それによって未来の時間軸との距離感を測りやすくなった気がしています。だから、いよいよ平成が終わるとき、新しい元号になるときに、未来の時間軸を考えるための、何かもうひとつ新しい軸のようなものをつくっていきたいですね。淡々と平成が終わって地下鉄サリン事件は忘れられるようなことではなく、今回触れた時間軸と新しい軸を結びつけ、これから、どうなっていくのかを照らし合わせるような作業に興味があります。

 

和田:死刑執行から約2ヶ月のタイミングで「TIME LINE」展ができたのはとても早い動きだったと思います。それが単純な抗議運動でもなく、すごくアクティブなメッセージを提示したわけでもなかったから、あの展示をどのように見れば良いのか、どう語ればよいのか難しかったのかもしれないなと振り返ってみて思いました。

 

土屋:テーマを「地下鉄サリン事件・死刑執行」だけに掘り下げてやる方法もあったのかもしれないし、その方が議論もいろいろ起きたのかもしれない。だけどやっぱり、その一点に執着してしまうことへの怖さがあるんですよ。僕はもう少し広い視野で考えたいし、そこを大切にしたいと思っているからこそ、探してるんだと思います。いちばんベストな方法を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真の余白、想像の補完によって見えてくること

- 土屋紳一「TIME LINE」インタビュー<前篇>へ>>>

 

■プロフィール

土屋紳一|Shinichi Tsuchiya

1972年、横浜市生まれ。アーティスト、アーキビスト。

東京造形大学卒業。国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)卒業。デュッセルドルフ・クンスト・アカデミー卒業。トーマス・ルフからマイスターシューラーを取得。写真メディアを中心に国内外で展示を行っている。水戸芸術館 クリテリオム92(2016)以来の展示であり、国内のギャラリーでは帰国後初の展示となる。

 

和田信太郎|Wada Shintaro (メディア・ディレクター)

1984年宮城県生まれ。表現行為としてのドキュメンテーションの在り方をめぐって、映像のみならず展覧会企画や書籍制作を手がける。最近の主な仕事として、「磯崎新 12×5=60」ドキュメント撮影(ワタリウム美術館, 2014)、「藤木淳 PrimitiveOrder」企画構成(第8回恵比寿映像祭, 2016)、展覧会シリーズ「残存のインタラクション」企画(Kanzan Gallery, 2017-18)、「ワーグナー・プロジェクト」メディア・ディレクター(神奈川芸術劇場KAAT, 2017)。2012年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了。現在、東京藝術大学大学院映像研究科特任講師、株式会社thoasa(コ本や honkbooks・企画・映像制作・書籍出版)ディレクター。

 

■text by 嘉原妙

嘉原妙|Tae Yoshihara

1985年兵庫県生まれ。京都造形芸術大学卒業。大阪市立大学大学院創造都市研究科(都市政策学)修士課程修了。NPO法人BEPPU PROJECTにて、地域をフィールドに様々なアートプロジェクトの運営を経験。主に「国東半島芸術祭」事業(2012-2014)にて美術・パフォーマンスの作品制作・進行管理、地元企業や市民と協働したツアープログラムの開発等を担当。2015年4月よりアーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)プログラムオフィサーとして、東京アートポイント計画事業、人材育成事業「Tokyo Art Research Lab」、東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業「Art Support Tohoku-Tokyo」等を担当。共著に『6年目の風景をきく』(アーツカウンシル東京、2016年)。

 

 

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