© Utako Shindo
©Kazuna Taguchi
Kanzan Curatorial Exchange
UnJapan / 非日本
進藤詩子 田口和奈 森 弘治
キュレーター:フィリップ・ブロフィ (Philip Brophy)
2017年11月3日(金)- 11月30日(木)
入場無料
「日本人のアーティストがいる。彼または彼女を「日本人の」アーティストにしているのは何か。
そして日本人のアーティストは、「日本に非ざる」アートを制作し得るのか。日本の美術は、大正以来この二つの問いに悩まされ続けてきたー」。
日本のアート・カルチャーの歴史と現在に造詣が深く、自身もアーティストであるフィリップ・ブロフィ(メルボルン在住)のキュレーションによる企画展。ブロフィは、「日本の作家であると同時にUnJapan/非日本作家として文化の海を越境し航海してきた」3人のアーティストを招いた。「一点は同胞である日本人に向けて、もう一点は日本人ではない人たちに向けて」という、彼の依頼を受けて制作された作品で構成される。
▶TALK : 11月3日(金) 17:00-
進藤詩子 × 森弘治 × フィリップ・ブロフィ
無料/定員20名/要予約
TEL. 03-6240-9807または、こちらのフォームよりご予約ください>> 予約フォーム
▶RECEPTION:18:30−
【キュレーター】
フィリップ・ブロフィ Philip Brophy
メルボルン(オーストラリア)生まれ、同地在住。
アーティスト、作曲家、映画・映像ディレクター、ミュージック・パフォーマー、音楽ライター&スピーカー、キュレーター。
世界で初めての大規模な「手塚治虫」の個展をキュレーション、またアーティストとして「トレース・エレメンツ」(2008、東京オペラシティ)に参加するなど、日本との繋がりも深い。 http://www.philipbrophy.com
【アーティスト】
進藤詩子 1980年東京生まれ、メルボルン在住。 http://www.utakoshindo.info
田口和奈 1979年東京生まれ、ウィーン在住。 http://www.kazunataguchi.com
森 弘治 1969年横浜生まれ、同地在住。 http://hiroharumori.com
キュレーター・インタビュー 08:フィリップ・ブロフィ
【UnJapan / 非日本 TALK 11/3 2017 進藤詩子 × 森弘治 × フィリップ・ブロフィ】
Kanzan Galleryでは、日本のアート・カルチャーの歴史と現在に造詣が深く、自身もアーティストであるフィリップ・ブロフィ(メルボルン在住)のキュレーションによる企画展を開催します。
国際化、グローバル化、ネット社会化が進んだ現在でも、欧米から見れば日本がエキゾチックな国であることに大きな変化はないと言えます。日本の現代アートもまた、未だに「浮世絵」との比較で語られること、「漫画」や「アニメ」の影響を指摘されること、そして、海外の視点から「日本的ではない作品」は評価が得られないことも珍しくありません。日本人のアーティストたちは、こうした状況下で国際舞台に出て行かざるを得ないのが現状です。
ブロフィは、日本の美術史から漫画やアニメなどのサブカルチャーまで精通し、長きに渡り日本に足を運び、自身の眼で日本の現代アートを見つめて来ました。今回は、日本のアートとアーティストが置かれたこの不思議な状況とその魅力について考察する展覧会を企画しました。
「日本人のアーティストがいる。彼または彼女を「日本人の」アーティストにしているのは何か。そして日本人のアーティストは、「日本に非ざる」アートを制作し得るのか。日本の美術は、大正以来この二つの問いに悩まされ続けてきた。百年にも渡って日本の美術と文化は、孤立主義と国際主義の狭間を干満する潮のように揺れ動いてきたーー。」ブロフィは、この半世紀に限定すると、「日本の美術は西洋的であろうと足掻いているか、あるいは頑迷に日本的であろうとしているように見える。しかし目を凝らすと、どこかに西洋的な何かを罹患しており、かつ漠然と日本的であるようでもある」と分析します。
今回の展示のためにブロフィは、「日本の作家であると同時にUnJapan/非日本作家として文化の海を越境し航行してきた」3人のアーティストに「一点は同胞である日本人に向けて、もう一点は日本人ではない人たちに向けて」と制作を依頼しました。ブロフィのシンプルかつ根源的な問いに、アーティストたちはどのような作品で応えるのでしょうか。
UnJapan/非日本
日本人のアーティストがいる。彼または彼女を「日本人の」アーティストにしているのは何か。そして日本人のアーティストは、「日本に非ざる」アートを制作し得るのか。日本の美術は、大正以来この二つの問いに悩まされ続けてきた。百年にも渡って日本の美術と文化は、孤立主義と国際主義の狭間を干満する潮のように揺れ動いてきた。世界と格闘すべく自らを国境の外に追い立てたアーティストたちの多くが、結局日本という国を背負った社会と文化の親善大使として扱われてしまう運命にあった。藤田嗣治、岡本太郎、オノ・ヨーコ、杉本博司、そして村上隆にいたるまで、視覚芸術の世界で文化的越境を果たした悪名高い面々も、その断ち切れない連環の中に閉じ込められてきた。
このような問題と格闘しているのは明らかに日本だけではない。世界中の「権威的でない」国々も同様だ。宗主国が提示する枠組みや範疇を拒否した芸術は可能なのか。自らの文化的背景や好奇心のカリカチュアとならずに、支配的な眼差しとの差異を表現することは可能なのか。日本の文化的制作物という幅広い振幅の中で、長い時間をかけてその答えは提示されてきた。絵画、録音された音響、そして映画。最近半世紀に限定して見渡すと、日本の美術は西洋的であろうと足掻いているか、あるいは頑迷に日本的であろうとしているように見える。しかし目を凝らすと、どこかに西洋的な何かを罹患しており、かつ漠然と日本的であるようでもある。日本の美術が自国文化の内部で自然に振る舞うために獲得してきた文化的アイデンティティは、一時たりとも形を留めず、常に不透明なものだった。西洋中心主義的なモダニズムという単純な物語の中に戦後日本美術が置かれた居心地の悪い立場は、恐らくこのように流動的なアイデンティティに起因している。
そして、日本美術を興味深いものにしているのも、この居心地悪さなのだ。過剰に自己言及的でありながら半端に批判的で、しかも戦略としての表現に疎い日本美術は、「一目で読み解ける」ような代物ではない。特に日本の現代美術という領域では、あらゆるものが逆転され、反転され、または否定されているかに見える。私が日本の美術を大海に漂う異国の島のような「他者」として読み取ろうと足掻く一方で(政治的に問題がある方法論と言われるかもしれないが、私は気にしない)、他者としての日本を解読する試みは既に日本のアーティストたちによって行われており、私には太刀打ちできないとも感じている。どの県もご当地の工芸品を売り出すようなこの国で、文化財、人間国宝に囲まれながら、しかし日本のアーティストたちは避けられずして自らのアイデンティティを自問しているように思われる。文化的な血統から授かった疑いようもなく巨大な力に抗うかのように。縺れあった糸のような表層のイメージを除けて下を覗くと、そこには「国際的」という野望と「鎖国」という宣言が、極薄の透明の壁によって分け隔てられているのである。
「UnJapan/非日本」は文化的な実験である。それは、三人の日本人アーティストを招き、上に問うた諸問題をあからさまに作品に反映させる実験だ。三人とも十年以上に渡ってこの複雑な問題の影響を問答無用で受けながら作品を制作してきた。この奇をてらったキュレーションの企て以外に、三人のアーティストを結びつける糸はない。三人が共同で国民的なアイデンティティを共有して発表するのでもない。共通しているのは、三人とも何年もの間日本国外に居住して活動した経験があるということ。日本の作家であると同時にUnJapan/非日本作家として文化の海を越境し航行してきた三人なのだ。キュレーターとしての私は「ガイジン」という立場を濫用して、三人のアーティストに本展のために二点ずつ作品の制作を依頼する。一点は同胞である日本人に向けて、もう一点は日本人ではない人たちに向けて。もしこの企みの方向性が無意味で悪趣味に聞こえるとしたら、恐らくそれは国民的なアイデンティティというもの自体が所詮無意味で悪趣味なものだからに違いない。各人の「ルーツ」というものは、民族主義的な縛りの空虚さを暴いてることになっているようだが、どうやら自らの起源というものは振りほどこうとするほどに、アーティストに絡みつくようだ。
はっきりさせておきたいのだが、このアイデンティティの問題を一番痛烈に感じているのは観客でも、ましてやキュレーターでもなく、アーティスト本人たちなのである。90年代以降の現代美術は、土着の声を異質に混在させながら膨れ上がる、国際的大カーニバルのごとき様相を呈してきた。それぞれの「マイナー」な文化を代表する作品が主導的な文化が想定するグローバリズムとの差異を強調するのだが、キュレーションの企てが持つ平面的な視点によって、その声は既に均一に色のついたものになっている。インクルーシブであることを希求する展覧会ほど、文化人類学的な観点が決定した土着性に裏切られる傾向がある。固定した文化的アイデンティティを押しつけられてしまうのだ。国際的という雑音の中で、個人作家の声はかき消されてしまう。作品がそのような流れに乗るか反るかというのは、アーティスト自身が選ぶものではないのか。「UnJapan/非日本」という企画展は、そう提案する。日本人のアーティストがいる。彼または彼女を「日本人の」アーティストにしているのは何か。「日本人のアーティスト」として振る舞うかどうかは、本人の選択次第。日本人のアーティストは、「日本で非ざる」アートを制作し得るのか。それも本人の選択次第であるはずなのだ。
参加アーティスト
進藤詩子.
進藤詩子.
森弘治
キュレーター
フィリップ・ブロフィ
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unJapan
How is a Japanese artist ‘Japanese’? How does a Japanese artist make art that is not ‘Japanese’? These two questions have haunted Japanese art since the Taisho era. For nearly a full century, Japanese art and culture has been a tidal to-and-fro, responding to either stands for isolationism or statements of internationalism. Mostly, artists push beyond Japan’s homeland borders to engage the world, only to be treated as socio-cultural diplomats for Japan’s nationhood. From Tsuguharu Foujita to Okamoto Taro to Yoko Ono to Hiroshi Sugimoto to Takashi Murakami (to name some notorious transcultural travellers in the visual arts), the cycle is perpetuated.
For sure, every ‘non-dominant’ country in the world grapples with similar questions: how do artists refute dominant imperialist frameworks and categories of artmaking? and, how do artists articulate their difference from those dominant views without caricaturing their own background and interests? Answers have been proposed at different points in time across the broad bandwidth of Japanese cultural production. Over the last half-century alone, paintings, records and movies from Japan can appear to be either desperately Western or stridently Japanese. But read closely, they also appear to be either septically Western or cryptically Japanese. Their idiomatic encoding of cultural identity is and has always been shifting and opaque. This flux in rendering identity has likely contributed to the ongoing problematic position post-war Japanese art occupies in simplistic Eurocentric tales of Modernism.
Yet this is what makes Japanese art so fascinating. Laden with self-reflexivity, unresolved criticality and obtuse strategies of expression, it rarely offers an ‘easy read’. This occurs so strongly in contemporary Japanese art, it can seem as if everything is being reversed, inverted, negated. On one hand, I always feel like I am reading Japanese art as an exotic island of Otherness (though I have no problem with the political incorrectness of such a method). On the other hand, I often feel Japanese artists are already performing this task better than I ever could. Amidst a hive of designated living treasures, national icon presentations and prefectural craft marketing, Japanese artists seem inevitably embroiled in questioning their own identity despite the resounding power bestowed on them by their cultural lineage. Under the skein of their projected imagery lies a wafer-thin transparent wall that divides their ‘internationalist’ aspirations from their ‘isolationist’ declarations.
UnJapan is a curatorial experiment, based on inviting 3 Japanese artists to openly reflect on these issues which have complexly and tacitly informed their practice for over a decade. Nothing unites these artists bar this curatorial conceit. Nor do they collectively generate a shared statement on national identity. All have lived overseas for years at a time; all have navigated transcultural waters by appearing equally to be Japanese and ‘un-Japanese’. This exhibition exploits the rudeness of my being a gaijin to ask them to openly contribute two works for this exhibition: one, addressed to fellow Japanese; the other, addressed to non-Japanese foreigners. If this sounds vulgar and pointless in its directive, it is because national identity is arguably vulgar and pointless. For despite the grand claims to debunk such nationalist strictures, one’s ‘roots’ often seem to tighten those artists most seeking to loosen their grip.
To be clear: this is a problem felt more by artists than their audience—and definitely more than their curators. Post-90s contemporary art bulges with internationalist carnivals bent on parading a heterogeneous mix of indigenous voices. While each ‘minor’ cultural representative asserts their difference to hegemonic suppositions of globalism, they are collectively ‘pre-voiced’ by the flattening perspective of curatorial strategies. Exhibitions which strive for inclusivity are often betrayed by anthropologically determined notions of indigeneity which enforce fixed ideals of cultural identity. A solo artist’s voice will always be lost in the din of this internationalist noise. UnJapan proposes that it is an artist’s choice to shape whether or not their work should perform in this way. How is a Japanese artist ‘Japanese’? By choosing to be so or not. How does a Japanese artist make art that is not ‘Japanese’? By choosing to do so or not.
Artists:
Shindo Utako
Taguchi Kazuna
Mori Hiroharu
Curator:
Philip Brophy
>>Curator Interview #8
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