Kanzan Curatorial Exchange「生き延び」vol.1

「Fractal」

天野 祐子

 

キュレーター:小池浩央

 

2022年11月18日[金]- 12月11日[日]

[火曜-土曜]12:00-19:30

[日曜]12:00-17:00

月曜定休/入場無料


[EVENT] ROUND-TABLE TALK

12月3日[土]13:00-17:00 入退場自由/無料

天野祐子(写真家)

 

Kanzan Curatorial Exchange「生き延び」

外部に開かれた生としての生き延びについて考える展覧会シリーズ。

 

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“きのこのイメージについても本当におっしゃる通りで、

キーになりそうな予感がするとともに孤立してしまうという心配がありました。

新しく追加したかごの中の貝が、砂浜の死んだ貝や生きている貝、

そしてきのこのイメージをやわらかく繋げてくれるものになると感じました。

 

この写真は岬にある監視小屋に入れてもらった時のものです。

前歯の抜けたおじいさんが立派な双眼鏡でアオサギを追いかけていたので話しかけたところ、

長年この場所でアワビやウニの密猟者や、外国からの船を監視しているそうです。

密猟をする人間にとっては自然や霊的なものよりも何よりお金が一番だということ、

夜中になるまで真っ暗な森の中に隠れ機会を窺っているということですが、お化けなんて信じていなくて

人間が一番怖いという社会で生きている人たちだという話をしました。

外国から流れ着いた、人間の死体の話も聞きました。

 

その後連れていってもらったおじいさんの監視小屋は、

もう時代遅れだということで(今は立派な暗視カメラや遠くまで届くレーザービームのようなライトがあるから)

もっぱらアトリエのようになっていました。

ビールやおつまみはもちろん、大量のシーグラスや繰り返し落ちる水滴によって丸い穴が開いた石のコレクション、

今回の写真のアオイガイを集め、おじいさんが作っているシンメトリーのオブジェなどを見せてもらいました。

シーグラスを文字通り1パックと、タコ漁の時に使う丸いガラスの浮きを2つもらいました。

 

シビアな現実と向き合ってきた人が大きな双眼鏡でアオサギの飛んでいく様を見ていること、

海岸に流れ着いたガラスの破片や綺麗な形の貝を集め、防御のための監視小屋の中でそれを使ってオブジェを作ること……

私は、この決してなくなることのない混沌や矛盾についてぼんやりと考え、悲しみを感じるとともに少しの心地よさを感じました。

テレビのネイチャー番組で、猛禽が縄張り争いのために海鵜を攻撃し、海鵜の群れがパニックになっているすぐ側で、

カメラから見切れるすれすれのところで実はカモメが寝ている、みたいな……

 

私は自分がさまざまな悲惨さの蚊帳の外にいると感じます。

今世界中で起きてしまっている悲劇になぞらえると口が裂けても心地よいなんて言えませんが、

そこに一瞬でも、ささやかな安らぎがあってほしいと願うばかりです。

 

話がずいぶんと逸れてしまいました。

 

写された被写体、構図、場所、気配、感情、色、記号、意味……

さまざまな要素が緩やかに繋がり、だからといって完全に閉じられているわけでもない。

できることなら暴力的なイメージを避け、深層に感覚の一致や矛盾を込めたい。

(写真の場合、シャッターを切る瞬間に「込めるぞ…!」と祈るほかないかもしれませんが)

そんなことを思いながらセレクトをしました。

いつもそんな感じなので、一見なんだかまとまりがなくて分かりにくくて、そっけないものになるかもしれません。”

 

2022/10/14 11:43 メールの文章より抜粋、展覧会に向けて

天野祐子

 

 

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2004年に亡くなったフランスの哲学者ジャック・デリダは、生前最後に行われたインタビューにおいて「生とは生き延びである」1と述べた。デリダは、死の要素も含めたあらゆる他なるものとの絶え間ないせめぎ合いの上になかば奇跡的に成立している、また、そうして他なるものの影響を受け続け、汚染され、改変されうるもの、つまり外部に開かれたもののことをそう呼んだのである。翻訳された書物が作者の死後に生き残るように、たとえ原文のもつリズムや音、または綴りが頁の上で織りなす形が失われようとも、それでもなお生き残るものがある。

 

今回展示される『Fractal』は、2015年に発表された『海辺/The Edge of the Sea』に連なる作品である。このタイトルが、海をすべての生命の原点と考えたレイチェル・カーソンの『海辺』からとられているように、天野は海岸を歩くことで出会った様々なものたちから生物の多様性や豊かさを感じとり、現在は山の上である場所でさえもかつては海だったということを想起しつつ撮影を続けていく。忙しない日常に追われ近視眼的になってしまった現代において、5年や10年といった単位ではなく人類が誕生する遥か以前のことを考えるのは決して容易ではない。しかし、過去に向けて長い射程の視野を持つことのできる者は未来に向けてもそうできるはずである。その上で、現在になりえなかった過去の分岐点、つまり「もしかしたら」の世界や「起こらなかったかもしれない」世界を想像することも、作家の役割なのではないだろうか。ここにいない人、ここにないものを思うことこそが、こうしていま生き延びることができているわれわれがすべきことなのではないか。いずれにせよ、こうして写真を撮る彼女も写真を見るわれわれも、すべからく地球が辿ってきた歴史の一要素であり、ゆえに自然と人間は単純に分けられるものではない。そのことが現れてくるのが、2022年に発表された『Gračanica』である。コソボ共和国にある女性修道院の食事後のテーブルを「そこに在る自然」として撮影したこの作品に人物は一切登場しない。それにもかかわらず、そこで祈り生活する人々の気配がむしろ濃厚に掬い取られている。この修道院が置かれた土地が辿った歴史に想いを馳せつつも、そのことを声高に述べるのではなく、そこで繰り返される食事という日々の営みから自然と人間の関係を垣間見せてくれる。今回の『Fractal』にも人物は(体のパーツを除いて)登場しないが、『海辺』では意識的に除かれていた人間の気配がそこかしこに感じられる。写真家とそこに現れるものたちとの親密さから、この作品が単なる『海辺』のバリエーションではなく、『Gračanica』を経たからこそ辿りついた、自然と人間の切り離せない関係を探ろうとしたものであると言えよう。かつて天野は、海辺にあるものを見ている写真家の姿も不可視の何者かによって見られているように感じられる、と語ったことがある。フラクタルはあらゆるスケールにおいて見出され、小さなものもそれを見つめる者もまたそれを取り巻く世界も、ある視点から見ればすべて近似した形をもつことだろう。そうだとすれば、すべてのものは厳密に分けることはできず、常にどこかとどこかが繋がっており、お互いに影響を与え/受け続けている。そのように能動と受動が絡みあい、時間的にも開かれているような関係こそが、すなわち生=生き延びであると言えるだろう。

(当展キュレーター 小池浩央)

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1 Jacques Derrida, Apprendre à vivre enfin. Entretien avec Jean Birnbaum, Galilée, 2005, p. 26./ジャック・デリダ 『生きることを学ぶ、終に』鵜飼哲訳、みすず書房、2005年、24頁。

 

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[プロフィール]

天野祐子 Yuko Amano

https://yukoamano.com

1985年茨城県生まれ。2010年 武蔵野美術大学大学院造形研究科デザイン専攻写真コース修了。

主な個展に、2015年「海辺」 (Midori.so2 gallery, 東京)、2013年「unknown | renown」 (G/P gallery, 東京)など。

主なグループ展・参加イベントに、2022年「See the Light」 (HAGIWARA PROJECTS, 東京)、2021年「BAIR retrospective exhibition」 (Center424, ベオグラード, セルビア)、2019年「大地の物語」 (札幌大通地下ギャラリー, 500m美術館, 札幌)、2018年「L’esprit parfaitement clair」 (mcd, リール, フランス)、2017年「ZONA DYNAMIC at GlogauAIR ”THE VOICE OF DOXA”」 (GlogauAIR, ベルリン, ドイツ)、「Open studio “NEW PALALLELIA” with Yang Gi Cheng」 (Cite Internationale des Arts, パリ, フランス)、2015年「カメラのみぞ知る」 (HAGIWARA PROJECTS, 東京)、「光の洞窟」 (KYOTO ART HOSTEL kumagusuku, 京都)など。2020年「梅田哲也 イン 別府 『O滞』」に写真家として参加。

主な受賞歴に2017年 武蔵野美術大学パリ賞受賞、2010年 第3回写真「1_WALL」入選。

 

 

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