Exhibitions
kanzan gallery 特別展示
大森克己『心眼 柳家権太楼』
2024.12.21 Sat - 2025.2.2 Sun
キュレーター:菊田樹子|協力:柳家権太楼・MEM
[冬季休業]12月30日[月]- 1月3日[金]
GALLERY TALK|1月18日[土]16:00- (予約不要/入場無料)
大森克己(写真家)× 菊田樹子(本展キュレーター)
kanzan galleryでは、2024年の締め括り、2025年の幕開けを飾る「特別展示*」 として写真家・大森克己の個展「心眼 柳家権太楼」を開催します。
この作品は、落語家・柳家権太楼の「心眼」の一席をはじまりからサゲまでの丸ごと撮影したものです。盲目のあんま師が、妻と信心を重ねついに視力を得たところ、表面的な美醜に囚われて、それまで見えていた大切なものを見失ってしまうというこの演目は、「写真」の宿命である「見ること」、そして「見えること/見えないこと」に興味深い示唆を与えています。しかも、大森による「心眼」において鑑賞者である私たちは、この古典落語の名作を、聴くのではなく「見ること」だけで享受するのです。
「心眼 柳家権太楼」は、写真集(平凡社)として2020年3月、新型コロナ第1波の最中に刊行されました。見えないウィルスに翻弄された未曾有のパンデミックも、すでに忘却の彼方に追いやられてしまったかのような現在、今いちど、この作品が差し出す問い「私たちは何を見ているのか?」に向き合ってみたいと思います。
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*kanzan gallery「特別展示」
写真と映像を表現メディアとする若手アーティストのサポートを目的に設立された一般財団法人 日本写真アート協会を母体としている当ギャラリーでは、2015年より年間約9本の展示を行なってきました。年に1回開催される「特別展示」では、若手アーティストが今観るべき作品・写真家の展示を行なっています。
2016年 「幻の響写真館 井出傳次郎」
2017年 Witold Romer – ヴィトルド・レーマー 「あの日々の、忘れられた光」
2018年 森澤勇「軽井沢時代」
2020年 山田脩二「新版『日本村』1960-2020 写真プリントと印刷」
2022年 渡邊耕一「毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー」
2023年 長船恒利「在るもの」
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「見ること」、そして「見えること」「見えないこと」。多くの人には些事かもしれないが、写真家にとっては日々向き合い続けなくてはならない命題である。大森克己もまた、「目の前のものをよく見たい、そしてその『見たまま』を残せないものか」[1]「目には見えないものをつかまえたい」[2]という、相反する願望の間を長きにわたり行き交いながら写真に向き合ってきた。たとえば「目に見える桜と目に見えない桜」(「Cherryblossoms」2007年)、バラク・オバマ大統領就任セレモニーのパブリックビューイングに集まった人々と彼(女)らの熱気や想い(「STARS AND STRIPES」2009年)、光とレイヤー(「すべては初めて起こる」2011年)──多様なモチーフと手法を用いて、大森は目に見えるものを写し、目に見えないものを知覚させようと試みてきた。
ここに並んでいる<心眼 柳家権太楼>は、その一つの到達点に他ならない。今回、大森が取り組んだのは「落語」である。「落語と写真」という異色とも思えるこの組み合わせの端緒は、大森がある落語会ではじめて柳家権太楼の『心眼』を聴いた(見た)2015年に遡る。盲目のあんま師が、心優しい妻と信心を重ねついに視力を得たところ、表面的な美醜に囚われて、それまで見えていた大切なものを見失ってしまうというこの演目は、「見ること」、そして「見えること」「見えないこと」に興味深い示唆を与えている。寄席には通い慣れた大森だったが、この演目の途中で「目の前の景色が軋み出した。自分は何を見ているのか?この座布団に座っている男は一体何者なのか?(下略)………」とさまざまな問いかけが押し寄せ、はじめて落語を撮ってみたいと思ったという。この衝動は2年後に「落語家という存在は、物語を運ぶ乗り物のように舞台の上にいるのではないか。乗り物とか、乗り物が荷物を運ぶ様子であれば写真に撮ることは可能かもしれない」と思い至ったことで急速に具体化していく。
大森は無機質な撮影スタジオに白いホリゾントで、「心眼」を演じる柳家権太楼が高座に上がるところからサゲまでの一部始終をカメラにおさめた。この話芸に欠かせないはずの声は写真に写るはずもなく、私たち鑑賞者が「見る」ことができる要素──座布団、扇子、手ぬぐい、えび茶色の着物を纏った落語家──も極めて少ない。しかし、次々と変貌するその表情、柔らかくしなう身体や滑らかに動く手指が、絶え間なく、雄弁に語りかけてくる。そのことに気づいた時、私たちはすでに「見えるもの」から「見えないもの」を知覚しているのである。そもそも落語には、設定を説明する大道具もなく、役に合わせた衣装もない。たった一人の演者の声と表情、仕草が、明治時代へ、浅草へと私たちを導き、目の前には盲目の按摩師や優しい夫思いのおかみさん、上総屋の旦那が現れては消えていく。大森は、柳家権太楼に2度「心眼」を演じてもらっている。1度目はカメラを固定して一定の距離で、2度目はカメラを手持ちで感覚や感情のままに引いたり、寄ったりしながら撮影を行なった。そこから、丁寧に選び出された一連の写真が露わにしたのは、時空を超えた空間を浮かびあがらせるのが落語なのだという事実であり、その目には見えない空間を写真から知覚できるという事実である。
しかし、話はここで終わらない。撮影を打診された際に柳家権太楼が述べた「出来上がるものは……きっとそりゃ、落語じゃねえな」という予言は的中したのだった。この作品は、落語の深奥を示しながらも、「写真を見ること」にラディカルな問いを投げかけているのだ。一般的に、写真は「見たまま」に写る(または、「見たまま」「ありのまま」に写した写真は良い写真である)と信じられている。しかし、それは技術的にも不可能であり、カメラは焦点を固定しファインダーに映るすべてを捉えることができるが、人間の眼は常に流動的で(意識しているかどうかは別として)自ら選んだものしか見ることができない。今回の撮影方法は、まさにこの点を衝いている。一定の距離はカメラの、引きと寄りを感覚的に繰り返すのは人間の眼の機能だ。大森は、この2つを組み合わせることで「目の前のものをよく見たい、そしてその『見たまま』を残せないものか」「目には見えないものをつかまえたい」という、不可能と思われる写真を生み出そうとしたのではないだろうか。
ここから先は、私たち鑑賞者に委ねられた。「写真を見る」ということは、自分が何に惹かれ、何を見ようとするのかを知ることだ。ここに展示されている写真を、写っているものだけでとらえようとするならば「高名な落語家のポートレート」で終わる。しかし、時系列に並べられた小さなプリント、隣り合うプリントとの間、寄りで撮った2枚の大きなプリントがつくり出す空間──言語化できない写真の余白と共に「私たちは何を見ているのか?」問いかけてもらえたらと思っている。
当展キュレーター 菊田樹子
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Profile
大森克己おおもりかつみ
1963年神戸生まれ。1994年キヤノン写真新世紀優秀賞受賞。国内外での写真展や写真集を通じて作品を発表。
主な展覧会に、グループ展「世界の庭、パラダイスの探求」(2016 リートベルク美術館 チューリッヒ、スイス)、グループ展「日本の新進作家vol.12 路上から世界を変えていく」(2013 東京都写真美術館)、個展「sounds and things」(2014)、個展「 “when the memory leaves you” – sounds and things vol.2」(2015)、個展「山の音-sounds and things vol.3」(2022いずれもMEM)がある。
代表的な写真集に「サルサ・ガムテープ」(1998 リトルモア)、「encounter」(2005 マッチアンドカンパニー)、「サナヨラ」(2006 愛育社)、「Cherryblossoms」(2007 リトルモア)、「STARS AND STRIPES」(2009 以下いずれもマッチアンドカンパニー)、「incarnation」(2009)、「すべては初めて起こる」(2011)など。